京焼・清水焼の歴史

KYOYAKI KIYOMIZUYAKI 'S HISTORY

一.起源

わが国の陶磁器製造は、中国や朝鮮の大きな影響を受けて始まり、やがて日本独特のものに生まれ変わってきた。特に京都においては、より一層洗練され、雅やかな独特のやきものがつくられるようになった。

京都におけるやきものの起源は明らかではないが、旧史によると五世紀前半の雄略天皇の頃、現在の宇治市及び京都市伏見区の陶工に御器を作らせたことがあった。

また七世紀初期には、洛北岩倉幡枝栗栖野や上賀茂本山、西賀茂鎮守庵付近で、寺院の祭器や屋根瓦が作られていた。

さらに奈良時代聖武天皇の頃(八世紀前半)に、僧行基が詔を奉じて山城国愛宕郡清閑寺村(京都市東山区清閑寺)に窯を築いて土器を製造しており、その遺跡が茶碗坂といわれている。

こうした古墳時代から奈良時代・平安時代にかけての土器跡や須恵器窯跡、緑釉陶器や緑釉瓦を焼いた瓦窯跡などの存在は、よく知られているところである。

二.始まり

ところで一般に「京焼」の名で呼ばれるやきものは、茶の湯の流行と普及を背景に江戸時代の初めごろから東山地域を中心として広がった京窯で焼かれたやきものをさしている。

桃山時代、長次郎のもとで始まった「楽焼」(聚楽焼)は、ふつう京焼のなかには含まない独立したやきものとして考えられている。

京焼の始まりについては、様々な説が伝えられているが、一説には室町時代宝徳年間(1449~52)に、小松谷清閑寺の職人であった音羽屋九郎右衛門が茶碗坂の窯跡を発見し、深草に窯を移して陶器を作ったとされている。

また永正年間(1504~21)には、渋谷の工人元吉が深草式の方法で京焼を改良し、釉薬による新しい工法を発明、その後清水に窯を移したという。

さらに桃山時代から江戸時代にかけた大正・慶長年間(1573~1615)になると、正意万右衛門、宗三、源介、源十郎といった陶工が現れ、音羽・清閑寺・小松谷・清水などの地で製陶を行った。

さて、京焼という言葉が初めて文献上にみられるのは、博多の豪商神谷宗湛の日記の慶長十年(1605)の条に記される「肩衝京ヤキ」があげられる。

この京ヤキが今日でいう京焼のことであるかどうかは明らかではないが、少なくとも桃山時代の慶長初年頃には、京都に窯業が始まっていたことがわかる。

また、江戸初期京窯の動向については、寛永から慶安年間(1624~52)の鹿苑寺(金閣寺)住職鳳林承章和尚の日記『隔冥記』に史料が多くみられる。  

その日記によれば、粟田口を中心とする東山山麓や北山に本格的な陶窯が起こっており、粟田口焼、八坂焼、清水焼、音羽焼、御菩薩池焼、修学院焼などの名が見出される。

粟田口焼のはじまりは、寛永元年(1624)に瀬戸の焼物師三文字屋九右衛門が粟田口蹴上に窯を築き、数多くの茶器を焼いたのが最初である。その作品にはみな粟田の印が押されていた。

また五条坂清水焼の陶業のはじまりについては、一説には茶碗坂の音羽屋惣左衛門の九代目が衰微して、文政二年(1819)に大仏(方広寺)境内鐘鋳街の丸屋佐兵衛に窯が譲られ、その窯を自宅の裏に移したのが最初であるという。

他に慶長十八年(1613)に大仏の巨鐘鋳造の時、窯を五条坂に移したのが初めであるという説や、慶長の末に窯煙が阿弥陀ヶ峰の豊公廟をおおうので移転を命じられ、窯を五条坂に移したのが始まりだとする説がある。

政治・文化・経済の中心で育った背景のもとで都市生活の維持に必要な職種が必要であり、京焼も其の一端を担っていた。

着衣は室町、建築は飾り器具、食は食器、香道は香具、華道は花器、茶道は茶器等それぞれの数寄者の好みに応じて制作されて来た。

その場所は洛内各地であり、京焼の一番多く生産されたのは東山地域を中心としていた。

三.仁清

これら京窯による京焼が一層盛んになり、各地の窯業にも大きな影響を与えるようになるのは、野々村仁清(清右衛門)が、御室仁和寺の門前に開窯してからであった。

仁清は丹波国桑田郡野々村(京都府北桑田郡美山町)の出身で、丹波焼の陶工であった。 粟田口を中心とする京焼がようやく盛んになりかけた江戸時代正保初年(1644)頃、御室仁和寺前に窯を開き、本格的な色絵陶器を制作した。

その華麗で雅やかな仁清の色絵陶は、御室焼・仁和寺焼として大いにもてはやされ、京焼の作風が大きく変化していった。

仁清独特の作風が京焼諸窯に影響を与え、それまでの「写しもの」を主流とする茶器製造から、多彩な器形と華やかな色彩の「色絵もの」へと転換していったのである。

特にその影響を強く受けた粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や、洛北御菩薩池の各窯では、数多くの色絵陶器がつくられるようになり、なかでも江戸初期から中期にかけてつくられたものは、現在「古清水」と総称されている。その頃から京都は製陶器の中心地となっていった。

古清水の色絵陶では、草木文様や自然の風物を意匠してあらわした素朴なものが多く見られるが、その作陶範囲はとても広い。

この頃の色絵陶はその絵付法や意匠において、当時すでに完成されていた他の諸工芸-漆工、金工、染織-などの技法や意匠を要領よく取り入れ、みごとに転用し、完成されたものがある。

四.乾山

仁清とともに声価の高いのが尾形乾山(1663~1743)である。

乾山は京都の呉服商雁金屋の三男に生まれ、兄は有名な画家尾形光琳、曾祖母は江戸時代に光悦焼をつくった数寄者本阿弥光悦の姉にあたる。

生まれながらの陶工ではなく、光悦の孫である空中斎光甫から光悦の楽焼の陶法書を授かり、本格的な陶工の道を志した。

元禄十二年(1699)には仁清の窯に陶法をならい、鳴滝に窯を開いた。

乾山のやきものは、兄光琳が持ち前の奔放な筆致によって絵付けをし、乾山が得意の書によって讃を寄せるというもので、二人の共同作業による銹絵皿の数々が伝承している。

乾山の作品の特徴は、生き生きとした筆使いや構図の巧みさ、そして色彩感覚の絶妙さにあるといわれ、意匠化された梅や菊など独特の文様が多くみられる。

独創性の面において独自の技法を生んだ乾山のやきものは、茶人などの注文に応じて作陶を行っていた仁清陶をしのぐともいわれ、その後幕末にかけて、乾山のように独立した陶人が次々と誕生するのである。

五.江戸末期

このように京焼の黄金時代は、元禄文化の上に仁清、乾山を頂点として開かれたが、第二の京焼の隆盛期は、その後文化・文政期を中心に築かれた。

特に画期的なことは、江戸初期以来、色絵陶器の焼成を伝統としてきた京都において、本格的な磁器の焼成が始まったことである。

この新風を吹き込んだのは、伊万里磁器の大量流入と、奥田頴川をはじめとする磁器制作に打ち込んだ名工たちの輩出であった。

奥田頴川(1753~1811)は、豪商の生まれながら製陶を好み、粟田に窯を開いた。

彼の作風は、赤絵呉須の模様を最も得意とし、また古染付や交趾窯をまねて非常に巧妙で雅やかな磁器を制作した。

頴川が京都のやきもの界に残した功績のなかで、この磁器焼成の大成とともに忘れてはならないことは彼の門下から青木木米、仁阿弥道八、欽古堂亀祐、三文字屋嘉介などの多数の名工が現れ、伝統的な京焼の全盛がもたらされたことである。

青木木米(1767~1833)は、仁清や乾山と並ぶ「京焼名工」の一人で、主に煎茶器を得意とし、頴川の磁器製法を受けてその芸術性をさらに深めた陶人である。

木米は祇園新地縄手白川橋畔のお茶屋「木屋」の長男として生まれ、幼名は八十八といい、文人画の分野でも高い評価を得ている。

一方、西村(永楽)保全と和全親子による永楽焼や、頴川同様、海老屋清兵衛の出現など、それぞれ独自の個性を持った名工たちが育ち、華麗な京都の陶磁器を開花させたのである。

さらに彼らの京焼の陶工たちは、近畿ばかりでなく、中国・四国・北陸など各地の窯に招かれ、指導にあたったので、京焼は全国にその影響を大きく与えてきた。

六.明治

明治期に入ると、京都の陶磁器業界においては、伝統技法を守りながら、一方でヨーロッパの化学的、工業的な製陶法を全国にさきがけて積極的に導入し、販路の開拓や生産の合理化、経営の近代化などの新しい動きをみせてきた。

明治元年(1868)、三代目清水六兵衛と真葛長造は、横浜で石膏型使用の製法を修めて京焼に活用し、明治五年には錦光山宗兵衛が輸出品を試作し、神戸の外国商館で試売会を開いて、海外進出のきっかけをつくった。

また明治六年には、ウィーン万国博覧会へ京都の陶磁器を出品して評価を高め、これは海外へのPRと同時に、ヨーロッパからの技術の導入と、輸出振興のための基礎づくりとなった。

また、明治十一年にドイツ人技師ゴッドフリート・ワグネルを招き、西洋釉薬などの新しい製陶技術が吸収された。

他方、乾山伝七による京都で最初のヨーロッパ式円窯を使った洋風陶磁器の生産や、粟田の錦光山宗兵衛らによる大規模な工場生産など、近代的工場生産様式の導入が始まった。

そうして明治末から大正中頃にかけて、京都の陶磁器業界は絶頂期を迎えた。四条の拡大で、製作地域は粟田、清水から日吉、泉涌寺地区に広がり、その増大する生産量と零細企業との矛盾は、清水・五条地域を中心とする共同窯と貸窯の開発で解決がはかられた。

その後今日に至るまで、京焼・清水焼業界をとりまく環境には様々な変化や問題が生じ、登り窯から電気窯・ガス単独窯への急激な転換や、京都市山科区、宇治市炭山地域への集団移転などが起こっている。

しかしながら、多品種少量生産を特色とする京焼・清水焼は、日本の陶磁器界で確固たる地位を築いてきており、先人たちの活躍に加え、今日なおその伝統を守り、さらに新たな意匠をめざす名工たちによって、京焼・清水焼の手づくりの良さが伝えられ、根強い人気を保っているのである。

七.現代

京都の「焼きもの」を百二十年ぶりの海外で紹介する「現代の京焼・清水焼パリ展」が、パリ市の中心・凱旋門に面した会場(在フランス日本大使館広報文化センター)で開かれた。

会場では、食器・盛る器・茶道具・香の陶磁器・装飾の陶磁器ーの生活にかかわる五つの分野で約百点を展示。

またロクロ作業や上絵付けなど「伝統のワザ」の実演も行なったほか、抹茶の接待や琴の演奏で京都らしさを演出した。

初日から百人以上が訪れ、特に実演コーナーは見学の輪が途絶えないほど。

各種の日本文化展に会場を提供している広報文化センターでは「これまでの日本文化の展示会では一日二十人ー三十人程度。予想以上のにぎわい」と、京都人気に驚きをみせた。

今回は京都陶磁器協同組合連合会(竹内美郎会長)の「工」と京都陶磁器卸協同組合(森美喜夫理事長)の「商」が一体になって開いたのが特色。

有田など大量生産型の他産地に押されがちの京都産地が「商工一体の展示会で、手作りの京焼・清水焼を広くアピールする機会に」(森理事長)という狙いも果たせた。

開催委員会はパリ展後、年内に京都、大阪、東京で帰国展を計画。

「パリでの評判を上回る国内の評価を得て、京都の陶磁器が多くの人にもっと求められるようにしたい」(竹内美郎開催委員長)と意気込む。